《明月記を見て》
京都で2014年秋に公開された明月記の客星出現例を見て不思議に思うことは、字の大きさが3種類ありそれぞれのフォントが違うことでしょう。
明月記・客星出現例の「模型」
展示ケース内にこのようの展示されていました。
展示解説によれば左右両端の小さな字は定家の字です。詳しく見ると上下に横線があることに気が付きました。これは具注暦(陰陽寮が作成し頒布していた暦)という当時のフォーマットであると教えていただきました(町立久万美術館より)。しかし正確には具注暦そのものでないため、具注暦ベースの日記と考えています。
定家の字の上下には横線が入っていますが、貼りつけた返書の部分は上下の横線が消えています。定家以外の字は陰陽寮の事務職が書いたとされています。
《客星とは》
「客星」とは現在の「新天体」で彗星、新星、超新星などです。当時はこれらの現象は不吉なことの前兆、天からの政治への警告と受け止められていました。したがって天体観測は重要な業務で、発見した場合は内裏へ報告しなければならなりませんでした。
1230年に定家が客星(彗星)を見て安倍泰俊(あべのやすとし)に調べさせました。定家の目的は「客星の出現により過去にどのような厄災があったか」を調べようとしたのです。安倍泰俊は過去の記録を調べ定家に返書を送り、その返書を定家が明月記に貼りつけました。それが「客星出現例」で、8件の客星のうち3件が天の川銀河内超新星の記録がありました。3件の天の川銀河内超新星が記録されているものは世界でも唯一明月記だけです。
《客星出現例の超新星について》
客星出現例8件のうち3件が天の川銀河内超新星の記録です。3件の超新星の部分を書き出すと以下の文となります。
(1)
一條院寛弘三年四月二日癸酉夜以降騎官中有大客星如螢惑光明動耀連夜正見南方或云騎陣將軍星變本體増光歟
(2)
後冷泉院天喜二年四月中旬以後丑時客星出觜参度見東方孛天関星大如歳星
(3)
高倉院治承五年六月廿五日庚午戌時客星見北方近王良星守伝舎星
それぞれを訳すと以下のようになります。
(1)
1006年5月1日、夜中に大客星が連日南に見える。火星のようだ。明るく
光り輝く。ある人が言うには騎陣将軍星本体が明るくなったのか。
(騎陣将軍星はおおかみ座κ星)
(2)
1054年5月下旬以後、深夜に客星が現れた。オリオン座の頭や三つ星と
同じ赤径で、おうし座ζ星のそばにある。明るさは木星のようだ。
(3)
1181年8月7日、夜に客星が北に見える。王良星に近く、伝舎星を守る。
(王良星がカシオペヤ座β星、伝舎星がカシオペヤ座ε星だが、3C58が伝舎星に近く、「宗史天文志」では伝舎星を犯(大接近)すとあり、カシオペヤ座ε星説が有力です)
不思議なことに1054年の記録は観測日と六十干支が書いていません。そのまま解釈すれば新暦5月下旬頃に客星を見たことになります。実際にはおうし座は太陽方向にあり見えません。4月下旬でなく5月下旬(新暦の6月下旬)とすればおうし座が早朝に見える。5月を「4月に書き間違えた」と考えられています。現在は書き間違えた説が支持されています。
日に関しては中国の「宗志天文史」の記録に「至和元年五月巳丑(つちのとのうし)」と六十干支があり、新暦7月4日とわかります。陰陽師が月を間違え六十干支を書かなかったことは不思議です。
また「一代要記」(編者不明)にほぼ同じ文章が記録され同様に四月となっています。これは共に間違えた原典を写したのではないかと推測していますが定かではありません。この点は「星の古記録」斎藤国治著の中でも指摘されています。
《定家は天の川銀河超新星を見たか?》
答えはNoです。定家はいろいろな天文現象を見ましたが、3つの超新星は1006年、1054年、1181年の記録です。定家は1180年から明月記を書いています。したがって1006年、1054年は過去の記録です。1181年の超新星は定家が見たという記録は残念ながらありません。
《本当の読みは?》
2015年の12月にわかったことがあります。明月記を見ると「客星古現例」と書かれています。とてもわかりやすい字で書かれているため、各地で「客星古現例」として紹介しました。客星古現例の掲載依頼状を冷泉家時雨亭文庫に送った際に一緒に原稿も送りました。冷泉家時雨亭文庫のご担当者様に読んでいただき何点かご指摘をいただいきました。そして判明したことは「古」は「出」の「崩し字」だったのです。まさかの「古」と「出」の関係が判明し、「客星出現例」であることがわかったのです。2015年末より「客星出現例」と改め紹介しています。1年間も間違えていた恥ずかしい話です。